2009年03月23日

終わらない詩を詠めて(中)

少女がその目にするものとは。

登場キャラ
慧音 少年












 その日は何か妙な雰囲気だった。朝から父親が家におらず、他の家族もどこか余所余所
しい。慧音はそれを気にしないようにと努めたがどうにも違和感が拭えなかった。
 それでもいつものように手伝いを終えると直ぐに家を飛び出そうとした。しかしそれは
叶わない。母親に捕まると家にいろとの一点張りで、理由を聞いても曖昧にはぐらかされ
た。
 疑問は絶えなかったが、それでも大好きな母親の言いつけだ。慧音は素直に従って、退
屈な時間を過ごすことにした。きっと理由があるのだろう。母親の言葉に間違いなんてあ
るはずがないのだ。
 だから日が沈みかけた時、母親が家を空けてからこっそり抜け出したのは反発心などで
はなかった。ただ少年に一目会い、遊びにいけなかったことを謝りたかった。不思議と村
の外にも人影はなく、誰にも咎められることなく村を出ることが出来た。
 一人で夜道を歩く心細さはあったが、満月が行く先を照らしてくれていた。これで少な
くとも道に迷うことはないだろう。慧音はその幸運に感謝すらしていた。
 妖しいまでの輝きを放つそれが何を引き起こすのかを知らないままに。

                            *

 息を弾ませて慧音が駆けつけた時、直ぐに異変に気が付かなかったのはどうしてだろう。
ただ現実に思考が追いつかなかったのか、それとも幼い心には受け入れ難いものだったの
か。
 川辺を照らす月光は、無慈悲にもその現実をあからさまにする。少年と慧音だけの遊び
場だったはずのその場所が全く別のものへと変貌してしまっていたのだ。
 そこには大量の異物が溢れていた。それらは口汚い罵声を発しながら、手に手に持って
いる棒切れを何度も何度も振るっていた。
 その異物たちの中心には一人の女性がいた。地面にうずくまってただひたすらに謝り続
けている。痛みに悲鳴を上げながらも、必死に体を丸めながら何度も謝罪を口にする。そ
んな哀れを誘う光景に異物たちは更なる罵声と暴力を返していた。
 その女性が必死で庇っているものが慧音の会いたかった少年だと気付くのには更なる時
間を要した。碌に働いてくれない思考が、かろうじて導きだした答えはその女性こそが少
年の母親だということだ。
 だが何故彼女がこんな目に合っているのか、何故この異物たちが慧音の大切な場所に溢
れているのか、それらは何一つとして幼い慧音には理解できなかった。
「なに……これ……?」
 立ち尽くし、ただただ遠巻きに眺めることしか出来ない慧音を置き去りに、熱狂の渦は
更に混沌へと雪崩れていく。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
「うるせぇ! お情けで村に置いてやっているのに付け上がりやがって! 手前の子供さ
えきちんとしてればこんなことしなくても済んだんだよ!」
 怒声を上げながら異物は手を振り下ろす。女性は、少年の母親は必死に我が子を庇って
苦痛を甘受し、漏れそうになる悲鳴を噛み殺す。
「こいつ、人の家の娘に手を出そうとしやがった! 自分の立場も弁えられねえって、所
詮畜生の子は畜生ってことなんだよな!」
 異常な熱気さえ伴って二人を取り囲んでいる異物たち、それを人間であると、慧音のよ
く知る村人たちであるとは思えなかった。思いたくなかった。
 いつも笑っている優しいおじさんやお兄さん。困ったことがあれば助けてくれ、間違い
を犯せば叱ってくれた頼りになる村の男衆たち。そしてごつごつとした手で慧音を抱き上
げ慈しんでくれた自らの父親――それが今や悪鬼のような形相で自分の友人を、その母親
を取り囲んでいるのだ。
 慧音には悪夢だとしか思えなかった。こんなこと、現実ではありえないのだと目を瞑り
耳を塞いで座り込んでしまいたかった。だが罵声が、苦悶の声が響くたび、慧音にこれが
現実であるのだと容赦なく突きつけられる。
「何睨んでやがるんだよ、このクソ餓鬼がっ!」
 焦点を結ばない視点と思考が、おぼろげに現状を伝えてくる。いつの間にか母親にその
身を抱えられていた少年は、母親を庇うようにして小さな体を目一杯に広げていた。
 それはきっと正しい姿なのだろう。感動的な光景なのだろう。恐ろしい大人たちに囲ま
れながらも、敢然とそれらに相対する姿は賞賛されるべきに違いないのだ。だというのに、
恐ろしい大人たちは更に顔を凶悪に引きつらせ、人外の言葉をがなり立てるのだ。
「知ってるか? お前の父親は***で母親はその***を咥え込んだあばずれなんだよ!
恨むんならその糞みたいな親から生まれた自分の血を恨むんだな!」
 その言葉が何を意味するのかはわからない。それでも少年と母親の苦渋に満ちた表情が、
理不尽に彼らを踏みつけにしていることはわかってしまう。
 少年は何も言わず、ただ周りの大人たちを睨みつけていた。端正な顔を歪めながら、見
たこともない恐ろしい表情で、歯を食いしばって、視線にあらん限りの敵意を込めながら。
 慧音はただただ恐ろしかった。変わってしまった大人たちが、異界のようなこの場の雰
囲気が、そして変わってしまった、変わらざるを得なかった友人が。
 それでも、それでも慧音には守らなければならないものがあった。誰一人味方になって
くれなくても、慧音だけは守らなければならない世界があった。
 少年を――優しく平和な日常を取り戻せるのは自分だけしかいないのだ。震える体を、
崩れ落ちそうになる膝を、嗚咽を漏らしそうになる喉を、挫けそうな意思を、全身全霊で
叱咤して、慧音は狂乱の渦に飛び込んだ。
「やめてえぇー!!」
 声は掠れ、両の足は震えてまともに地面を蹴ってくれない。臥転びながらも慧音は必死
に走った。直ぐに慧音の存在に気が付いた大人達は浮き足立ち、そんな人々の間を縫って、
慧音は二人の前に飛び出した。一瞬だけ合った少年の目は驚きと、そしてそれ以上の悲し
みの色を湛えていた。
「もうやめてよ……なんでこんなことするのっ!?」
 二人を庇うように必死で両手を広げ、大人たちと向かい合う。
 慧音の視線を真っ向から受けて、大人たちは一瞬怯んだかのように顔を見合わせた。
「慧音……退くんだ」
 だが慧音の父親が一歩前へと進み出ると、また意気を取り戻したかのように慧音を睨み
つける。声には出さないものの、まるで慧音へ送られる視線は二人へのものと変わりのな
いものだった。
 だがもうそんなことは構わない。少年を、二人を助けなくてはいけないのだ。
 零れそうになる涙と悲鳴を押し殺して、慧音は精一杯の声を上げた。
「おとうさんっ、なんでこんなことするの!? 暴力はいけないっていつもいっているの
に!?」
「お前は騙されているんだよ。お前の友達が教えてくれなかったら父さんも気づかないと
ころだった」
「なによ、騙されてるって!? そんなことと人を殴ることにどんな関係があるの!?」
 その時初めて、父親は慧音の知っている顔を見せた。それは慧音を叱る時の怒りと悲し
みがない交ぜになっているやるせない表情だった。
「――そいつは妖怪だ」
「……え」
「母親は人間だがな、父親は昔村の人間を大勢殺した恐ろしい妖怪だったんだ。例え人間
みたいに見えてもな、所詮妖怪の子は妖怪なんだ。お前は……そいつに騙されてとって喰
われるところだったんだ」
「それ、って……」
 なんでこの時振り返ってしまったのか、慧音には自分でもわからなかった。妖怪という
言葉の重み、それは幻想郷に生きる人間なら誰しもが噛み締めている恐怖の象徴、散華し
ていった命の重みだ。繰り返し聞かされていた村を襲った恐ろしい妖怪の話。それは慧音
の頭にも深く根付いている。
 ――白銀の髪
 ――訳もなく差別されている
 ――年齢不相応な落ち着いた雰囲気
 どこにでもその事実に気付く要素はあったのだ。いや、気づかない振りをしていたのだ。
どうして村の人たちが避けているのか、どうして忌避しているのに追い出そうとはしなかっ
たのか。
 全ては自分が引き金だった。慧音の心に溜まった鬱積が爆発したように、村人の間で溜
まっていた恐怖と鬱屈を何も考えずに破裂させてしまったのだ。
 それでも、いや、だからこそ――自分には、自分だけはいえたはずなのだ。
『そんなことはあるはずない。彼はわたしに優しかったんだ! 昔のことなんて関係ない!
村の人たちが争うことなんておかしいよ!』
 そう胸を張って主張するべきだったのだ。
「っ……」
 少年一瞬だけ目が合った。束の間に浮かんだ微笑、それはいつのも不器用だけど優しい
笑みではなく、全てを諦めた諦観を孕んだものだった。そして直ぐに伏せられた視線は、
初めて会った時と同じ仄昏いものへと変わっていた。
 その眼差しに気圧されてしまったのか、それともただ間に合わなかっただけなのか。
「さあこっちへ来るんだ!」
 父親に捕まれた腕に抗うことも出来ず、伸ばした両手は少年に届くことは無い。そして
大人たちの腕に絡め取られて慧音は輪の外へと連れられていった。
「――っ!」
 遠く遠く離れていく少年を目にし、慧音は我に返ったように少年の名を叫んだ。身体を
縛る手から必死に逃れようとし、小さな両手を伸ばし続けた。
 それでも、少年はもう何も見ようとはしなかった。必死にもがいて叫び続けても、少年
の心にまで届かない。
 輪の外へと吐き出される寸前、少年の真後ろにいた男が棒切れを天高く振り上げている
姿が映っていた。死角から襲い来るその悪意に少年は気付かない。いや、気が付いていた
としても避けようとしたかどうかもわからない。
「やめてえええええええぇぇ!!」
 悲痛な叫びが木霊する。しかしもう何もかもがもう遅かった。
 慧音にはその結末を見ることすら出来なかった。時間がゆっくりと流れているような錯
覚を覚えながら、終末の光景をただ満月だけが冷たく照らし出していた。
 瞳から大粒の涙が零れ、伸ばした腕が空を切る。刹那の間の連続に、どこまでも時間が
引き伸ばされていく。
 どこにそんな力があったのかわからない。気が付くと自らを拘束する手を振り解いてい
た。
 一歩、二歩。人の輪に近付く。三歩、人の輪を掻き分ける。少年の姿が視界の端に入っ
た。そして四歩目を踏み出そうとした時――鈍い音が慧音の耳朶を打った。

                            *

 川辺は夜の静寂を取り戻していた。辺りには虫の鳴き声と川のせせらぎだけしか聞こえ
ない。まるで何事もなかったかのように、唐突に幕が降ろされてしまったように、静謐が
その場を覆っていた。
 悪意を振り下ろした者も、振り下ろされた物も、共に言葉を発することはない。恐らく
何が起こったのかわからなかったのは、その場の人間の全てに共通する思いだったのだろ
う。
「う、あ……あ、あぁ…………」
 静寂を破ったのは蚊の鳴くような呻き声だった。
 だらりと垂れ下がった両腕、自重を支えなくなった体、そして力なく項垂れるように、
有り得ない方向へと折り曲げられた頭部。全てを理解していたのはその下で呻き声を上げ
る少年だけだった。身を挺して理不尽な暴力から息子を守った母親の辿った末路、冗談の
ように突きつけられた現実を誰も理解したくなかったのだろう。
 先ほどまでの熱狂は完全に醒めてしまっていた。男達は気まずそうに顔を見合わせるば
かりで、少年のことなど完全に意識の外に追いやってしまったのだろう。
 何が起こったのかはわからなかったのは慧音も同じだった。ただ動かなくなってしまっ
た少年達と、急に訪れた沈黙が恐ろしく、その場に立ち尽くすことしか出来なかった。
 だが立ち尽くす間に一つの変化が起きた。静寂を破るように上げられていた少年の声が
止み、代わりに水音が辺りに響いていた。
 何も解らないまま慧音は視線だけを動かす。満月は変わらず姿を見せており、川で魚が
跳ねているわけでもない。 だとしたらこの音はどこから聞こえてくるのだろうか。
 びしゃり。
 慧音の頬を水が濡らした。
 びしゃり、びしゃり。
 雨――雨だ。最初に思ったのはそんなことだった。空には雲ひとつなく、青く妖しく光
る月や星々が見えているというのに、どうして雨が降っているのだろう。
 突然の雨は慧音の体を濡らしていく。どろりとこびりつく粘性の雨は慧音の視界を一色
に染めていった。
 びしゃり、びしゃり、びしゃり。
 赤い朱い紅い雨。それは慧音だけでなく辺り一体を原始の色に染めていく。
 既に少女の許容量を越えてしまった現実に、思考が追いつくことはなかった。
 ただそれは風なんだと慧音は思った。
 一度、颶風が巻き起こると辺りに紅い雨、そしてヒトノカタチを撒き散らされる。アツ
い熱い雨を撒き散らしながら吹く悲しい旋風。
 慧音はただ呆然とその光景を見つめることしか出来なかった。風が巻き起こり、雨の暖
かさに体を震わせながら、ただそれを見続け立ち尽くす。
 だから、目の前にソレが来ても、ああ風が目の前に立っているな、としか思わなかった。
 もう残っているヒトは自分だけしかいない。後は赤い赤い塊と、目の前に立つ一陣の風。
そのことに対して恐怖も安堵も慧音にはなかった。ただもう二度と手が届かなくなってし
まったものへの哀惜だけが澱となって心に沈んでいた。
 故に慧音は目の前のモノをただ見つめることしか出来ない。
 流れる銀髪の隙間から二本の角を生やし、月光を反射して虹色に輝くその瞳はどこまで
も美しい。両の腕を朱に染めながらも、その体はどこまでも白く透き通っていた。人外の
美しさに心打たれながらも、どうして風の姿が見えるのだろう、そんな場違いな思いしか
浮かばない。
 ゆっくりと風の口が開かれる。慧音の瞳は風景を映すだけで心はそれを理解しない。耳
は緩やかな鼓動を伝えるだけで、外界の情報を拾おうとはしてくれなかった。
 だから慧音は立ち尽くす。赤い視界に映る、紅い風を視界に納めたまま。

 気が付くと風は消えていた。
 どれほど立ち尽くしていたのだろう。再び辺りに静寂が訪れると、慧音は糸が切れたか
のように地面に膝を付いた。
「あ、は、はは…………」
 乾いた笑い声が喉をひりつかせる。
 果たして慧音の瞳に映った光景は何を意味していたのか。
「はは、あははあはははは…………」
 それを考えてはいけないと思った。この狂ってしまった世界に負けないように、笑い続
けなければいけないのだという確信があった。
「あははあははあはあははははははははははははははっ!」
 喉が千切れるくらいに声を張り上げて頭の中から全てを振り落としてしまいたかった。
「あははあははあはあははははははははははははははあははははははははははははははっ!」
 それなのに、見えていなかったはずの光景が、聞いていなかったはずのその言葉が、容
易く脳裏に甦ってしまった。
 どこまでも優しいその声を。どこまでも透き通ったその笑顔を。

 ――アリガトウ、サヨウナラ

 慧音は自分がずっと泣き声を上げていたのだとそこで初めて気が付いた。

                            *

 その日の出来事は直ぐに村の人々に知れ渡った。恐怖に染まった村はただ一人生き残っ
た慧音に対しても同じ感情を抱くようになった。
 だからその後の慧音の奇行に干渉しようとする者は誰一人としていなかった。
 表情に生気はなく、誰に話しかけられても無反応。ただふらりと村を出て、一日に何度
も村と神社を往復していた。完全な自殺行為に過ぎないそれを止める人間もいない。
 父親を目の前で殺され、多くの村人の死も目の当たりにしたのだということは周知され
ている。その元凶だと家族には忌避をされ、その内に物狂いだと周りからは憐憫を受ける
ようになった
 しかしそのどちらもが慧音には不必要なものだった。
 彼女が欲しているものはただの二つだけ。
 ――救済と天罰
 慧音が行ったのは全て善意だった。家族を、村を笑顔で包みたかった。
 慧音が持っていたのは好意だった。少年と一緒の道を歩いていたかった。
 慧音が抱いていたのは恋だった。不器用な笑顔をずっと傍で見ていたかった。
 その全てが、純粋な気持ちが、少年の運命を狂わせてしまったのだ。
 世界は平和に満ちておらず、優しさが時に人を傷つけることを慧音は知らなかった。
 誰もが人のことを思いながら、そのすれ違いが憎悪を生むことを慧音は知らなかった。
 少年の母親を殺し、彼の世界を奪ってしまったのは自分だ。
 今の慧音の全てはその罪悪感だけだった。
 ――神様お願いします、どうか彼を助けてあげて下さい
 ――神様お願いします、どうか私を罰して下さい
 その願いは等しく、慧音の心の底からの慟哭だった。
 大人でも忌避する険しく危険な神社への道。歩くたびに素足に突き刺さる砂利、幼い体
には長すぎる道程。死んでもおかしくない苦行を続ける慧音が浮浪児のようにぼろぼろに
なるのに時間はかからなかった。

                            *

 月を跨いでも慧音が生きていたことは奇跡だというしかない。草を食み雨露を舐めなが
らでも生きながらえることが出来たのは偏に胸に抱いた一念があったからだろう。もうど
れだけ村と神社を往復したのかもわからない。それでも少年に救済は訪れず、慧音に天罰
が下ることもなかった。
 その日、慧音はわずかの体力を回復させるために村の道端で横臥していた。空を覆い尽
くす暗雲は日光を遮り、体力の回復をわずかに助ける。今にも雨が降りそうだったが、慧
音がそれを気にすることはない。雨が降れば喉が潤う。晴れていれば体温が保たれる。た
だそれだけの認識を持つのみだった。
 体力が戻り体が少しずつ動くようになった頃だ。再び神社へと向かおうとした矢先、唐
突に村中がざわめきだしていた。
 人々は慌しく走り回っており、他人のことなど気にする余裕などないといった按配だ。
 半月ぶりに慧音は外界への関心を取り戻した。その一助となったのは間違いなく不安だ。
どこかで見たような光景、まるで一度通り過ぎた出来事を繰り返しているような既視感。
 焦燥感に駆られ、道行く人々を慧音は見つめる。何が、何がこれほどまでに気持ちをか
き乱させるのか。それを突き止めなければいけない。
 大声を上げて走り回る女性、落ち着かない様子の子供達。広場に集まって話し合う老人
たち。まるで祭りの準備でもしているかのような光景だ。季節を考えるとそれが一番理に
かな叶っている想像なのかもしれない。不安と恐怖に歪んだ人々の表情を見なければの話
だが。
 遠くの空で稲光が走った。直に雨が降り出すだろう。それを悟った村人達は次第に自分
の家へと帰っていく。女達は子供と老人を連れて家へと駆け戻る。
 そこで違和感の正体に気が付いた。
 ――この村の男はこれほど少なかっただろうか?
 いくら死人が出たとはいえ、余りにも男の数が少なすぎた。
 慌しい人々、語り合う老人、落ち着かない子供たち。もう何が起こっているのか考える
までもなかった。
 慧音は村の外へと走り出す。行き先は踏み固められた地面が教えてくれた。
 妖怪狩り、そんな蛮行に及ぶほどに村人は追い詰められてしまったのだ。
 慧音の向かう先、その運命を指し示すかのように広がっている黒雲が大粒の雨を降らせ
始めた。

                            *

 助けて下さい、助けて下さい、助けて下さい。
 それだけを祈りながら慧音はひた走った。既に甚雨は一間先さえも見通せぬほどの激し
さをみせ、慧音の体力を容赦なく奪っていく。
 何度泥濘に足を取られて転んだのかもわからない。最早自分がどこを走っているのかす
らもわからないの。
 再び泥濘に顔を突っ込んだ時、一つの思考が慧音を襲った。
 ――もう追いつけないかもしれない
  それは気力だけで体を動かしていた慧音の体を止めてしまうに十分な絶望だった。
ただでさえ大人と子供では足に差がある。その上で極限までに憔悴しており、向かう先
さえわからない。
 必死に想像を否定しながら、砂利を握り締め必死に体を起こそうとしながら、結局それ
が成ることはなかった。滝のような雨に体温を奪われながら、慧音の体は動かなくなった。
 誰も通りかからない山道に倒れれば一刻を待つことなく死神が慧音の命を攫っていくだ
ろう。それでも彼女は動くことは出来なかった。いや、もう動きたくはなかったのだ。
 もう自分には運命を変えることは出来ない。そう悟ってしまった。例え村人たちに追い
ついたとしても、あの日何もいえなかった自分には少年を守ることも出来ない。だとした
ら、もう一度悲劇的な光景を見せつけられるだけならば、もう何もしない方がましだろう。
 死ぬことは恐ろしくなかった。元より覚悟は決まっていたし、このまま生き永らえるこ
との方が怖いとさえ思った。
 全てを諦めた慧音だったが、どうしてか視線は道の先へと送られていた。
 ――恨むように
 ――祈るように
 誰に届くこともないその視線の先に稲光だけが光っていた。

 倒れてからどれだけの時間が経っただろうか。目を開け続ける気力もなくなり、重い瞼
を永久に閉ざそうとした直後のことだった。
(何かが、いる……)
 最初は勘違いだろうと思っていた。豪雨に遮られ何も見えないはずの視線の先、そこに
現れた影は死ぬ直前に見えた幻か、そうでなければ死神以外にありえない。
 しかしその感覚は直ぐに確信へと変わったいた。何故だかもわからないままに、慧音は
その先にある何かの存在を認めてしまっていた。
 ――汝の望みを叶えてやろう
 全身に叩きつけられる豪雨、それらをすり抜けるように慧音の頭に声が響いた。その異
常な現象を慧音は疑うこともなく受け入れた。目の前のモノが自分に語りかけているのだ
とわかってしまった。
 音のない声に気が付くと、自らを見つめている視線までをも感じるようになった。前方
から、後方から、左から右から、果ては下方からさえ見つめられている。
 だがそれでも慧音は冷静だった。いや、既に思考することを放棄しているだけなのかも
しれない。しかしそれらの怪異を説明するのに必要な言葉は一つしかないことも事実だっ
た。
 妖怪。
 その一つの単語の前には全てを受け入れる他に為す術などないのだ。
 目に映らず声も胡乱なその妖怪の正体など慧音には知る由もない。いやそんなこと初め
からどうでもよかったのだ
「……わたしの、望み……」
 少年の笑顔を取り戻す。壊れてしまった世界を修復する。
 それが叶うというなら慧音は悪魔とでも契約をするだろう。抗う理由などありはしなかっ
た。
 ――お前は人の身を捨てることになる
 だからどうしたというのだ。そんなこと関係あるものか、叶えられるというなら今すぐ
にでも叶えてみせろ。
 ありったけの力を振り絞って、慧音は体を起こした。目の前を睨みつけながら、あらん
限りの力で叫び、そしてその全ては嵐のような強風にかき消された。
 慧音が我に返ったとき、既に妖怪の気配は消えていた。叩きつける豪雨も吹きすさぶ風
にも何ら変化はない。彼女が倒れ臥す直前のそのままの光景が目の前に広がっているのみ
だ。
 違いはたった一つだけ。慧音はそのことを深く静かに理解した。
 慧音という人間はたった今死に、再生された。姿も形も何も変わりはしない。しかし慧
音は自分の本質が決定的に変質してしまったことを実感していた。
 死に掛けていた脆弱な肉体は既にない。滝のような雨に打たれていても、蚊に刺された
程にも感じなかった。
 あの妖怪、白沢が授けた力によって獣人と化した慧音にはもうわからないことはない。
ゆっくりと視線を巡らすと、瀑布の先、数里の向こうで起こっている出来事さえ手に取る
ように見ることが出来た。
 そこでは誰も彼もが泣いていた。子供のように泣き喚いていた。
 風となって人の臓物を撒き散らしながら少年は泣いていた。そんな少年を追いかける村
人たちもまた泣いていた。少年を縛する巫術師たちも泣いていた。世界は悲しみに満ちて
いた。
 生存を賭けた苛烈な争いも、今の慧音の瞳にはそのようにしか映らない。
 そんな世界はもう終わらせよう。今から再び優しい世界に帰るのだ。目を瞑ると懐かし
い記憶が今も鮮明に目蓋の裏に焼きついている。
「あの日に、帰ろう……?」
 目を見開くと、慧音は全てをその身に吸い込んだ。
 憎しみも悲しみも、争いも諍いも。そして喜びも楽しみすらも慧音は消し去っていく。
 それは人の営み、人の生きる全てのもの――慧音は歴史を喰らっていった。
 ある村に存在した少年の歴史。慧音が狂わせてしまった少年の運命、そして引き起こさ
れた悲劇の連鎖。それは今晩限りで終わりとなる。
 歴史を喰われた人々は、夜が明けてしまえば全てを忘れ平和な世界へと立ち返っていく
だろう。全てを覚えているもの、それは白沢の力を持つ者以外にいなくなる。
 この力はきっと自分を孤独にするだろう。もう誰一人として自分と同じ歴史を歩むこと
は出来ないのだ。
 それでも慧音には微塵の後悔も存在していない。
 これこそが自分が望んだ救済であり、そしてこれこそが自分が望んだ罰だった。
 ただ一つだけ願うなら、
「今度こそ世界が優しく紡がれますように」
 それが世界と決別した慧音に残った最後の願いだった。

 
                                                              下編へ
posted by sei at 01:50| Comment(0) | TrackBack(0) | SS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/116076729
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。