2009年03月23日

終わらない詩を詠めて(上)

雨の日は過去を思い出させる。慧音は落ち着かない気分でいた。

登場キャラ
慧音 少年












 先ほどから何度も部屋の中を意味も無く歩き回っている。そのことを自覚していても足
を止めることは出来なかった。屋根を、窓を叩く雨粒の音の一つ一つが自分の心をささく
れ立たせていく。
 普段の落ち着いた様子は影もなく、"寺子屋の先生"という仮面は剥がれ落ちていた。雨
の日はいつもそうだった。上白沢慧音という個人が晒され、襲い来るどうしようもない不
安に翻弄される。そうなると慧音には記憶の波間を木の葉のように漂うことしか出来なく
なってしまうのだ。
 もう何十年前のことだとはわかっている。最早そのことを覚えているのは慧音以外に誰
一人としておらず、そのことを示す物さえも最早この世のどこにもない。だというのにそ
んな出来事の、人々の、そして一人の少年の幻影が――慧音を絶えず苛むのだ。
 気が付くと屋根を叩く雨粒の音が大きくなっている。稲光が薄暗い部屋を刹那の間白色
に染め上げた。
 何とか自分を落ち着かせようと慧音は椅子に座り敢えて窓から外を眺めてみた。雨は段
々と激しさを増し始め、直ぐに三間先も見えないほどの豪雨となった。
(そういえば、あの日もこんな雨が降っていた……)
 慧音は椅子の上、まるで幼子のように膝を抱えた。そしていつの間にか震え出した体を
鎮める為に自らを抱きしめる。
 もう思い出せないと思っていた、思い出したくなかったその記憶。それが未だ鮮明に焼
きついていることを再確認させられる。雨雫の間に見え隠れする少年の姿、それは目を閉
じても目蓋の裏に、意識を閉ざしても脳裏の端に深く深く根を生やし目を逸らすことを許
してくれない。
 ――それは罪の記憶
 ――それは罰の記憶
 外の景色を映すことのなくなった窓を見つめ続けていると、在りし日の少年の姿が、も
う二度と慧音が見ることのなくなってしまった笑顔が茫と浮かんだ。
「――――」
 慧音の幽かな呟きは、しかし空気を振動させることすら出来なかった。あの日全ての歴
史は喰らい尽くされ、消えてしまった。存在しない名前を呼ぶことなど出来やしないのだ。
 そのことが悲しくて、哀しくて、慧音はとうとう小さな嗚咽を漏らしてしまった。
 慈しむように、嘲るように、ただ雨は降り続ける。
 彼女の涙は誰にも届くことはなく、雨音に吸い込まれるように消えて行った。

                            *

 一人の少女が川の上流へと続く道をひた走っていた。家の手伝いが終われば何時もこう
やって外を遊びまわるのが彼女の常だった。
 その小さな川は村の中心を通り抜けるように流れている。それは村にとっては恵みの水
であったのだが、幼い彼女に取ってはただの楽しい遊び場の一つに過ぎない。
 少女が遊び場にしている川原に辿り着くと目当てのものを発見した。少女は更に足を速
め、直ぐにその場に到着した。
 そこには一人の少年がいた。暗い顔で水面を見つめ、何をするでもなくただ茫と立ち尽
くしている。歳の頃は少女と変わらないだろう。身なりは貧しいものの、どこか大人びた
ように感じられるのは表情の薄さの所為なのだろう。まるでいくつもの季節を通り過ぎて
きたような達観が感じられる。薄汚れてはいても陽光に透ける銀髪は輝きを失っておらず、
端正な顔立ちは一種異様ですらある。
 まるで少年は存在自体が周りとの調和を拒否するようであり、大の大人でも声をかける
のを躊躇わせるような雰囲気を持っていた。
 しかし少女はそんな少年を前にして微塵も躊躇を見せず近付いていった。
  弾丸のように川原を走り抜けた少女は、少年が彼女の気配に気付いて振り返る前に、そ
の背中へと体ごとぶつかっていった。
「わっ!」
「う、わわわわ……ああっ!」
 体格では勝る少年だったが、意識を向ける間もなかったのだろう。線の細い身体は衝撃
を殺すことも出来ないままに川へと押し出された。腕を振り回しながら一歩、盛大に水し
ぶきを撒き散らす。二歩目で川底の苔に足を滑らせてまた体性を崩し、三歩目で何とか両
足を付く。
 大仰に溜息を付いた少年は即座に振り向いて声を上げた。
「なにするんだっ、危ないだろ!」
「あははははっ、そんな暗い顔してる方が悪いんだよー」
 元より浅い川なので溺れる危険はないが、足首まで川に浸かり跳ねた水は服を濡らして
しまっている。当然のように怒った少年はそっぽを向いて川から上がった。しかし少女は
そんな様子を気にもせずに、少年の隣に座り込んで顔を見つめる。
 顔を逸らしても眉根を寄せても大仰に溜息を付いて見せても、少女は変わらず見つめ続
ける。直ぐに少年は根負けした。
「君さ、何度も言ってるけど……」
「慧音ちゃん」
「……何だって?」
「みんなわたしのことは慧音ちゃんって呼んでるの。これも何度も言ってるわ」
 慧音が笑顔を向けると少年はばつが悪そうに顔を背けた。
「その、慧音……ちゃん。僕と余り関わらない方がいいんだよ、君の村の中での立場が悪
くなる」
「もうっ、そんなの関係ないって言ってるじゃない! しつこい男の子は嫌われるよ?」
「だから……」
「じゃあこれでいいでしょ。わたしは川に遊びに来ているだけ。あなたもたまたま川に遊
びに来ていた。あら、なんていう偶然かしら」
「うっ、ぐ……もう、勝手にしろよ」
「ええ、勝手にするわ。というかいつもしていたけど……そうだ、忘れてたっ!」
 慧音が手を打って少年に向き直る。少年は顔を逸らして面倒くさそうに体を引くが、引
いた分だけ慧音は詰め寄る。少年は直ぐに捕まった。
「そろそろ、名前を教えてくれてもいいでしょう?」
 顔を綻ばせる慧音に少年は諦めたような苦笑を浮かべた。

                            *

 慧音が生まれたのは極普通の家庭だった。慧音自身もそう思っていたし、物心付いてか
らも特に不自由を覚えることは無かった。
 博麗大結界が作られる前の恐ろしい妖怪が跋扈していた幻想郷。妖怪が妖怪らしくあり、
人間にとっては冬の時代だ。
 そんな中で普通の暮らしが出来たのだから、彼女は恵まれていたといえるだろう。それ
でも村では年に何度も人死には出ていたが、少なくとも村から出なければ妖怪に襲われる
ことも少ない。比較的収穫の安定していたその集落では飢えることも知らず、子供たちは
優しい大人に見守られ健やかに育っていった。
 そんな村に生まれたから、慧音はこの時までは信じて疑うことはなかった。この世界が
誰にでも優しい平和なものなのだと。望みさえすれば誰にでも平穏を手にすることが出来
るのだと。そんな幻想を信じることが出来ていたのだ――この時までは。

                            *

 慧音は村の子供たちの中でも特に明るく優しいと評判だった。だから慧音は村の誰から
も愛されていたし、慧音も家族を、村の人間を同じように愛していた。
 そんな慧音に不満があるとするならば、ある一つの家族のことだった。小さくない村落
ではるのだが、それでも村の人間は全て顔馴染みである。そうでなければ生きていけなかっ
たし、それは誰にとっても当たり前のことだった。
 だというのに、村の外れに住んでいる一組の母子はまるで村の中でも存在しないかのよ
うに扱われていたのだ。同じ村に住んでいるというのに名前さえ知らないその母子は、傍
目にも幸せそうには見えなかった。だからなのだろう、慧音には二人のことが気になって
仕様がなくなっていた。
「どうしてあそこの家の人とだけ一緒にいられないの?」
 そうやって周りの大人を問いただしたこともあった。しかし村人全てが口を濁し、
「そういうものだ」
  と慧音に言い聞かせるだけだった。周りの子供も物心付いた時からそうやって扱われて
きた母子に特別な関心を払うことはしなかった。彼女は一人、飲み込み難い懊悩を抱える
ことになった。
 村という共同体と家族との線引きが曖昧であったこともその一因なのだろう。話すこと
も出来ず名前さえ知らないその母子なのに、二人が笑顔でいられないことが我が身のこと
のように慧音を苛むのだ。
 それでも慧音は村の人たちを信じていた。彼らも等しく慧音には愛すべき家族なのだか
ら。ただその信頼は彼女の湧き上がる衝動を抑える方向には働かなかった。
(いつかあの家にお邪魔しに行こう。それで村の皆と仲良くなってもらおう)
 お互いに顔をつき合わせて話し合えばきっとわかってくれるのだと、そんな考えに至っ
たのはある種当然のことだったのだろう。
 そうして生まれた小さな決意、しかし機会は中々訪れなかった。小さくないとはいえ村
にはいつも誰かの視線があった。まるで結界のように母子との間には越え難い溝が存在し
た。慧音の望みは叶えられることもなく、小さな体に少しずつ不満は溜まっていった。

 そんな不満が爆発した日、慧音は初めて親の言いつけを破ってしまった。それは他愛の
ない悪戯心であったのだが、慧音にとっては冒険のようなものだった。
 村を飛び出し、川に沿って駆け抜ける。この近くで妖怪が出ることは滅多にないが、一
歩村から足を踏み出せば常に命が危険に晒されることになることはどこも変わりはない。
この村も慧音が生まれる前に、一度妖怪に襲われたことがあったらしい。その時に大勢人
が死んだのだと、村の子供たちは小さな頃から何度も聞かされている。だから絶対に村の
外に出てはいけないのだとわかってはいたのだ。だがほんの少しだけ緩んだたがは、その
危険性さえも理解のない大人たちに対する当てつけへと変換され、自らの現状と照らし合
わせる要因にはならなかった。
 村の中を流れる川も子供たちにとっては格好の遊び場ではあった。しかし生活用水でも
ある川で遊ぶことは疎まれる。だから子供たちが遊ぶときはより下流の場所に集まること
になる。そこならば大人たちの目も届き、流れも緩い。夏場は子供たちの憩いの場になる。
 慧音が向かっているのはその逆で、川の上流の方だ。流れも早く大人の目も届かない。
下手をすると妖怪と鉢合わせする可能性さえある危険な場所だ。だからこそ大人たちへの
反発になりえたのだ。
  特に目的があった訳ではない。ちょっとした冒険、帰ったときに友達に語る他愛のない
自慢話の種。それだけの為に行ったその場所で、一人の少年に出会ったのだ。
 それは不思議な光景だった。自分と年頃も変わらないであろう少年、寂しそうに一人川
面を見つめながら茫と立ち尽くしているその姿は、まるで遠い世界の写し絵のように慧音
の目には映った。風が通り過ぎるたびに綺麗な銀髪が漂うように靡き、その合間から覗く
彼の瞳は獣のように金色を反射する。慧音はその少年から目を離せなくなっていた。
 どれだけの間、そうして少年を眺めていたことだろう。ゆっくりと振り返った少年が慧
音の姿を視界に納めた。そうして初めて慧音はこれが現実と地続きの風景だと認識できた。
 彼こそが慧音が会いたいと焦がれていた少年に間違いなかった。
 慧音に向けられる視線は澱み、近付き難い雰囲気を発している。それでも慧音は全く物
怖じすることはなかった。呆然と開いていた口を笑みに変え、無造作に近付きながら声を
かけた。
「こんなところでなにやってるの?」
 両親や村の大人たちに言われていたことなどまるで考えもしなかった。ただ目の前の少
年と仲良くなりたいのだと、それだけで頭の中が一杯だった。
 少年はまるで幽霊にでも声をかけられたかのように、瞳を大きく見開いた。そんな様子
を不思議そうに眺めながら、慧音は少年が口を開くのをただ待っていた。

                            *

 たった一度きりのはずの冒険は今も終わることなく続いていた。
 春の暖かな陽光の下、慧音は振りかぶり川面に石を投げつける。真上から振り下ろされ
たそれは盛大に水を跳ねさせて、そのまま川底にぶつかった。
「駄目だよ、そんなんじゃ。まず平たい石を探さなくちゃ」
 振り返った慧音の視線の先にはあの時の少年がいる。何度も邪険にされでも諦めずに少
年に会いに行った結果だ。つい先日彼の名前を聞き出してからは、少年は諦めたのか前の
ように小言をいうのを止めた。慧音はそれが嬉しくて、まるで昔からの友達のように少年
と接した。
 彼は村の中に居場所が無く、こうしていつも川の上流で遊んでいる。だから慧音は村の
人の目を誤魔化してこうして度々遊びに来ているのだ。
 少年が川原の石を吟味すると、川面に水平に石を投げた。
「それっ」
「あ、すごいすごい!」
 少年の投げた石は何度も何度も川面を跳ね、とうとう対岸まで辿りつく。精々五間程度
の狭い川だったが、慧音にはとても凄いことだと思えた。
「別に凄くないよ、石がよかっただけさ」
「照れなくてもいいよ。凄い人は凄いって認めなきゃいけないんだよ」
「だーかーらー……ああ、もう。ほらっ、君もこの石を使えば……」
「慧音ちゃんだってば」
「……慧音ちゃんもこの石を使ってやってみなよ。上から投げるんじゃなく、こう地を這
わせるような感じで……」
「こう?」
 少年に教えられながら石を投げる。すると一回、二回と水面を跳ねて水底へ沈んだ。
「お、おおおー!!」
「うん、初めてにしては上出来かな」
「やっぱり凄いね、君は」
「っておい。君はないだろ、一応僕の方が年上なんだからさ」
「うーん、だって君は君って感じだよね。ちょっと頼りなさそうだし」
「さっきは凄いっていった癖に……どっちかはっきりしてくれないか」
 慧音は顎に手を当てて長考し、
「……凄く頼りない?」
「混ぜないでくれ」
「あはははっ」
 少年は大仰に溜息を付く。その大人びた仕草が慧音には可笑しく、更に笑い声は大きく
なった。それがまた少年の溜息を大きくさせるのだった。

 いつの間にか村人の目を盗んでは少年に会いに行くことが慧音の習慣になっていた。そ
の日も家の手伝いを済ませると早々に村の外へと駆け出していく。直ぐにいつもの川原に
辿り着くと違わず少年の姿が目に入った。
「おーい!」
「なんだ、また来たのか。来るなっていってるのに」
 呆れた風に溜息を付く少年だったが、その口元が少しだけ緩んでいることに慧音は気付
いていた。
「ふふふっ、偶然だよ。偶々会っただけだけど、一人で遊ぶより二人の方が楽しいよね?」
「全く……慧音ちゃんは本当に仕様がないな」
 少年は不器用に笑顔を作る。その困ったような笑みと、自分を呼ぶ声の自然さが慧音に
は堪らなく嬉しかった。
 自分と殆ど歳も変わらないだろうにどこか大人びており、兄がいたらこんな感じだった
だろうか。そんなことを思うこともある。
 始めは理不尽な大人への反発や、他の子と違うことをしているという優越感もあったの
かもしれない。だが今ではもうそんな気持ちは微塵もない。ただ少年と一緒にいることが
楽しくなっていた。
「今日はどうするの?」
 喋りながら投げた石は水面を何度も跳ねて対岸まで辿り着く。元々活発な慧音だったか
ら、水切りを覚えるのに日はかからなかった。しかしそうなってしまっては流石に日がな
一日熱中するというわけにもいかない。
「今日は向こうの林にの方へ行こうかと思っていたんだ」
「あっちの方? 何か面白いものでもあるの?」
「うん、この前あそこに木苺が群生しているのを見つけて……ってうわあ!」
「何ぼやぼやしてるの? 早く行くよ!」
「ちょ、そんなに引っ張らなくても木苺は逃げないよ」
「そんなことだから君は駄目なんだよ、もし逃げたらどうするの!?」
 慧音の迫力に気圧されて、少年の声は小さくなる。
「そりゃ……びっくりはするだろうけどさ」
 慧音の思いとは裏腹に、少年は急ぐ気配はない。押しても引っ張っても動かない少年に
焦れて慧音は先に走り出した。
「こっちでいいのー?」
 走りながら顔だけを少年へと向ける。
「前を見ないと危ないよ!」
「えー? 何だってー?」
「だから、前を見ないと……」
「うあっ!」
 返事をしようとした瞬間、慧音は大木に正面衝突していた。
「だ、大丈夫かい?」
 何が起こったのかもわからないまま、呆然と座り込んでいると少年が慌てて駆け寄って
繰る。振り返り少年の心配そうな顔を見ているうちに、額が鈍い痛みを主張し始めた。
「う……あぅ……」
 額が熱を持ち始め、目の前が霞む。瞳には見る見るうちに涙が溜まっていき、もう何が
何だかわからない。もう出来ることは衝動に身を任せることしかない。
 慧音が泣声を上げようとした瞬間、
「大丈夫だよ、慧音ちゃん。赤くなってるだけだからさ、痛くない痛くない」
 少年の手が慧音の頭に触れていた。視線を合わすように屈み込んだ少年の手は、打った
箇所を避けるようにして慧音の頭を撫でる。
 真珠のような大粒の涙は零れ落ちる寸前で、鼻の奥がつんとする。それでもどうしてか
声を上げることは我慢出来た。
「あうぅ……痛いぃ……」
「歩けそうかい?」
 ゆっくりと慧音は首を振る。今は何をしても涙が溢れてしまいそうだ。
「しょうがないな。じゃあ負ぶってあげるから」
 片手で額を押さえながらも、ぐしぐしと袖で涙を拭うと少年は背中を向けていた。
「そんな子供じゃないもん」
「だったら立って、歩こう。木苺が生えている場所まで直ぐだからさ」
「…………」
 再び溢れてきていた涙を拭うと慧音は恐る恐る立ち上がる。少年はそんな慧音に笑顔を
向けてもう一度頭を撫でると、彼女の横に並んで立った。
「危ないからもう走っちゃ駄目だよ」
「……うん」
「よし、じゃあ手を繋いで行こうか」
「……うん!」
 少年が伸ばした手を慧音はそっと握る。そこから伝わる体温はどこか心地よく、安心感
を覚えさせてくれた。気が付けば額を抑えていた手も離れ、痛みもどこかへ行ってしまっ
た。
 
 その後二人で食べた木苺は酸っぱくて、お世辞のも美味しいものではなかった。それで
も慧音は楽しくて、酸っぱい木苺を何度も口にしては笑っていた。
 一度繋いだ手を離すのが名残惜しくて、慧音は川辺に帰るまでずっと少年の手を離すこ
とはなかった。日が暮れた後、もう戻らなくてはいけなくなって少年に諭されて慧音は川
辺を後にする。それでも何故か名残惜しくて、川辺に残った少年に何度も振り返っては手
を振った。明日になれば会えるのに、明日が無理でも明後日には、明後日が無理でもきっ
と直ぐに会える。そうわかっているはずなのに、慧音は何度も何度も手を振った。
 少年は苦笑を浮かべながらも手を振り替えし、二人の距離は遅々として開くことはない。
 結局日が沈みきりそうになってから慧音は大慌てで走り出した。
 彼はきっと笑っているのだろう。馬鹿な自分を見ていつもの不器用な笑顔を浮かべてい
るのだろう。背中を向けていても、少年の様子は容易に脳裏に像を結んだ。
 家に帰ってから母親に拳骨を喰らってしまったが、その日のことを後悔することはない。
ただ明日も今日のような日であったらいいと思いながら暖かい寝床に付くのだった。

                            *

 それは本当に平和な日々だった。優しい家族に、優しい村の人々。時には辛い家の手伝
いも、その後は両親は誉めてくれる。美味しい御飯を食べて、友達と遊び、そして泥のよ
うに眠る。そして何より不思議な少年と遊ぶ時間は慧音にとっては黄金にも換えがたい幸
せなものだと感じていた。
 こんな毎日が何時までも続くのだと慧音は信じて疑わない。もうどうして少年に近付い
たのかも忘れ、ただ毎日の幸せを享受していた。
 村の中と外との温度差には未だ憤りを覚えていたが、慧音はどこか楽観していた。
 きっと些細なすれ違いに過ぎないのだろう。村の人たちがわかってくれる日も直ぐに来
る。不器用で、仏頂面で、何を考えているかもわからないけど、本当は凄く優しい少年な
んだ。きっと皆も好きになってくれるに違いない。
 だから慧音は考えもしなかった。何故少年が、そしてその母親が村人たちから忌避され
ているのかということを。
 それがどんな結果を生むことになるのか――今はまだ知るものはいない。

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posted by sei at 01:49| Comment(0) | TrackBack(0) | SS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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